宮沢賢治は女性にモテモテだった!? それでも”未経験説“が囁かれる理由

「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」などの作品で知られる童話作家・詩人の宮沢賢治。その名が広く知れ渡ったのは没後のことで、生前はほとんど無名に等しい存在だった。

 明治〜昭和初期に活躍した文壇人には女性関係が派手な者が多かったが、そんな当時の文豪たちとは一線を画す。1933年、急性肺炎により37歳の若さで亡くなったが、生涯を通じて女性との関係はただの一度も持ったことがなかったと言われているのだ。

 現在の岩手県花巻市に生まれた賢治の実家は、事業を営む裕福な家。本人も盛岡高等農林学校(※現在の国立岩手大学農学部)卒業という今風の言い方に直すならセレブなインテリ。朴訥とした容姿だが、その気にさえなればいくらでもモテる存在だったのだ。

 実際、彼に好意を寄せる女性はいたようだが、賢治はこれを頑なに拒絶。花巻農学校の教師を辞めた後、小学校の先生をしていたある女性と知り合うが、彼女の作った手料理に「私には食べる資格がありません」と口につけなかったとか。

 さらに会いに来ても居留守を使ったり、灰を塗りたくった顔で彼女と会ったりと徹底的に嫌われようとしていた。ただし、決して性的欲求がなかったわけではないようだ。近代文学史に詳しい文芸評論家は、賢治に関するこんなエピソードを教えてくれた。

「生前、彼は現在の大人向け艶雑誌に相当する春画の冊子を持っていました。でも、あふれる欲求を抑えるために一晩中牧場の中を歩いたり、一心不乱に原稿を書き続けたという逸話も残っています。そのため、自分で処理していたのか、鑑賞はしても行為すら絶っていたのかは意見が分かれるところですけどね」

 一説には性的行為に対する嫌悪感などが強かったとも言われているが、晩年にはそんな禁欲生活のせいで病気になってしまったと後悔がうかがえる内容の発言も残している。

 それでも彼の残した数多くの作品は、今もまったく色あせることない。幻想的とも称されるあの独特な世界観は、実は禁欲生活が生み出したものだったのかもしれない。

(T-Factory)

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