1月10日にギタリストのジェフ・ベック(享年78)が、そして翌11日にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の高橋幸宏(享年70)が亡くなった。「ロック界の至宝」2人の秘話をここに公開!
「自分は昭和26年生まれで、坂本龍一と同じ71歳。彼はひとつ年下なんです。まだ早すぎますよ」
高橋の死を悼むのは、音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠氏。続けて、その足跡を振り返る。
「高橋さんは70年代から常に音楽シーンの最先端にいました。というのも、72年に加藤和彦のサディスティック・ミカ・バンドにドラマーとして加入し、その後は細野晴臣(75)に誘われてYMOに参加。音楽の神様というべき2人に引き上げられて、世界へと打って出たのです」
78年に結成されたYMOはデビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を引っ提げて世界ツアーを敢行。海外から人気に火がつき、79年発売のセカンドアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」は日本にテクノブームを巻き起こした。
「アルバムのジャケットで着ている人民服をデザインしたのが高橋さんなら、シングルカットされた『ライディーン』を作曲したのも高橋さん。インストゥルメンタルでありながら、メロディーがきちんと歌声になっていて、あれだけのインパクトを残した。作詞作曲、アレンジ、そしてデザインと、多彩な才能を発揮した高橋さんはすべてにおいてスタイリッシュ。その一言に尽きます」(富澤氏)
20年以上にわたりアーティストを取材してきた音楽ライターの平賀哲雄氏が、YMO3人の関係性を語る。
「幸宏さんがよくおっしゃっていました。坂本龍一は奇才、細野晴臣は天才、そして自分は凡才だと‥‥。でも、奇才と天才をつなげるまとめ役ができる時点で凡人ではないですよね。グループの中で最もプロデュース能力に長けていたのが、幸宏さんだったのではないでしょうか」
高橋はYMOの都会的で洗練されたイメージを作り出した功労者だった。
「服に無頓着だった坂本が草履かサンダルを履いていたら『教授、それはないよ』と。細野と最初に会った時にも『その服装はないよ』と注意したそうですから、常にプロデューサー的な視点から2人を見ていたのでしょう」(平賀氏)
高橋が音楽業界に与えた影響は計り知れない。
「何を隠そう、清水健太郎の『失恋レストラン』(76年)のドラムを担当したのが幸宏さん。また、山下久美子をプロデュースし、ピンク・レディーや竹内まりやに楽曲を提供するなど、語り切れないほどのアーティストと関わってきたのも、当時としてはかなり先駆的でした」(平賀氏)
広い交遊関係は、08年からキュレーターを務めるロックフェス「ワールド・ハピネス」にも示されている。
「出演アーティストの顔ぶれがとにかく多彩で、電気グルーヴなどの〝直系〟の後輩たちだけでなく、木村カエラ、きゃりーぱみゅぱみゅ、さらには竹中直人、みうらじゅんといったボーダレスなアーティストがステージに上がりました。彼らに共通しているのはYMOと同じく、唯一無二の独自路線でブレイクした点です」(平賀氏)
多くのミュージシャンに慕われた高橋。富澤氏は後輩思いの人柄に触れてこう語る。
「加藤(和彦)と細野(晴臣)に重用されて世に出たという思いがあり、自身がその役を担おうとしたのではないでしょうか。かつて、音楽の世界で花形といえばリードボーカルで、ミュージシャンというのは日陰の存在でしたが、そんな概念を打ち破り、ミュージシャンがスターになれることを証明したのが高橋さん。現在、活躍するアーティストたちのために道を切り拓いたという印象です」
昨年9月の「50周年ライヴ」には多くの音楽仲間が集まる予定だった。合掌。
*週刊アサヒ芸能2月2日号掲載