強行開催か中止か、有観客か無観客か――かつてないほど激論が飛び交う東京五輪。間もなく開幕となるが、メダル以上に世の中を騒然とさせたアスリートの言葉をプレイバック!
「見つけた方はご連絡を」小林孝至(88年ソウル/レスリング)
ようやく出場できたソウル五輪・レスリングフリースタイル48㌔級で金メダル。ところが、電話ボックスに忘れて大騒動に。幸い、メダルはすぐに発見者から届けられ、小林は「金メダルを2度もらうようなもの」と感激した。
「他人より何倍も下手だった」岩崎恭子(92年バルセロナ/競泳)
無名の少女が獲得した日本人史上最年少の金メダル。200㍍平泳ぎを制して、あまりにも有名な「今まで生きてた中で、一番幸せです」から一夜明け、冷静に自身を振り返る。苦手なスタートとターンの猛練習が実ったようだ。
「屁の突っ張りにもなりません」石井慧(08年北京/柔道)
陽気な若者たる石井は、100㌔超級の金メダルに輝いた直後のインタビューで「斉藤仁先生(男子柔道監督)のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」とドヤ顔。解説の篠原信一氏が「しゃべるな」と苦笑い。
「金がいいです~」田島寧子(00年シドニー/競泳)
400㍍個人メドレーで銀メダルに輝いたが、すかさず「金がいいです~」との飾らない本音が人気につながった。ところが、まさかの女優転向で世の中の見る目が一変。朝ドラ出演など成果はあったものの、ほどなく引退に。
「私はレース中、後ろを振り返りません」円谷幸吉(64年東京/マラソン)
国立競技場に入るまで2位の位置にいたが、後ろから追い上げるヒートリー(イギリス)を振り向くことなく、最終的には銅メダルに。続くメキシコ五輪を間近に控えた68年1月、自ら「幸吉はもう走れません」と命を絶った。
「涙の出ようがないですよ」桜井孝雄(64年東京/ボクシング)
日本のボクシング史上、初の金メダルをバンタム級において獲得。報道陣に「感激の涙が見られないが?」と振られると、あまりの減量苦を指して「水を飲まなかったから涙の出ようがない」と、中央大学生らしく冷静にコメント。
「われわれはみんなビジネスマンだ」釜本邦茂(68年メキシコ/サッカー)
日本サッカー史に輝く銅メダルは、7得点を挙げた釜本の活躍が大。当時、プロ選手は参加できず、海外の記者は「プロ並みの練習をしているのか」と質問したが、釜本はきっぱりと否定し、アマチュアとしての誇りを口にした。
「コケちゃいました」谷口浩美(92年バルセロナ/マラソン)
メダル候補だったが、20㌔過ぎの給水所で後続選手と接触して転倒。さらにシューズが脱げる事態となり、結果は8位に終わる。ゴール後のインタビューで放った「コケちゃいました」の照れ笑いは、ワイドショーをにぎわす。
「300㌔のカエルをつかまえた」宗村宗二(68年メキシコ/レスリング)
東京五輪では補欠だったが、その悔しさを晴らしたメキシコでは見事、グレコローマンスタイル・ライト級で金メダル。直前に勤務する会社が倒産したが、それでも試合前夜に「300㌔のカエルをつかまえた夢」がご利益に。
圧倒的な逆風にさらされたまま、東京五輪が7月23日に開幕。コロナ禍による緊急事態宣言下の開催は、世界中が厳しく監視する様相を呈している。
歴史を振り返れば、こうした不運は今回が初めてではない。1940年(昭和15年)には、欧米以外での初開催となる東京大会が決まっていたが、日中戦争の長期化により返上。1980年(昭和55年)のモスクワ大会は、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカに追随して日本もボイコットを余儀なくされる。
いつの時代も、こうした政治的な思惑に左右されるのは選手であり、そのため、出場できた競技後の「言葉」は格別の意味を持つ。4年に1度の開催を終えると、その年の流行語大賞は五輪関連で占められることが多い。メダルを手にした素直な歓喜、あと一歩で届かなかったことへのむき出しの怒りなど、記録以上に見る者をざわつかせる。
史上初の1年延期という事態を乗り越えての「TOKYO2020」は、今なおくすぶる反対論をねじ伏せることができるのか。そして、極上の「生きた言葉」がジャンプするだろうか――。
(構成・石田伸也)