健康問題に加え、家族との軋轢も暗い影を落としていた。もともと円満だった家族関係も95年に母親が亡くなると、父親はおろか、親しかった兄弟ともまったくの没交渉になってしまったのだ。実兄が絶縁に至るまでの経緯について、重い口を開いてくれた。
「最後に明菜に会ったのは母親のお通夜の時です。その時はたあいもない会話をした記憶がありますが、それ以来26年間会っていません。一昨年、妹・明穂(享年53)が亡くなった際に『明穂が亡くなったから葬儀場へ来てほしい』と連絡しました。『用事があるから来られない』と言われてしまい、それから連絡は取っていません」
妹の明穂さんといえば、1歳年上の明菜に憧れ、一度は芸能界入り。ツッパリ系のアイドルとして売り出したもののブレイクを果たせず、芸能界を引退した。その後は一般人として生活をしていたものの、19年に肝硬変になり入院。ヘルニアも併発して闘病の最中に容体が急変し、亡くなった。実兄が続ける。
「母が亡くなってから4、5年間ほどの間は、姉や妹の明穂は、明菜と電話連絡を取っていたんです。しかし突然、マネージャーを通さないと連絡が取れないようになりました。それから明菜がどこで何をしているのか皆目わからない。兄として明菜のことを知りたい気持ちはあります。兄弟の中にはマネージャーに対して不信感を持っている者もいますね」
小さい頃には、周囲もうらやむ仲のいい家族が、なぜ四半世紀もの間、連絡を絶つほど関係を悪化させてしまったのか。実兄によれば、
「明菜が家族にも心を閉ざした理由には、思い当たる節もあります。かつて、明菜が税金対策として個人事務所を設立した時に飲食部門として、飲食店の経営を家族がやっていたことがあります。でも、なぜか明菜が勝手にお金を使われていると勘違いして怒ってしまっているようなんです。今も、その時のことが尾を引いているのかもしれません」
日本を代表する歌姫として活躍していた明菜の全盛期である80年代は、くしくも歌番組が20%以上の高視聴率を叩き出し、アイドル発の歌謡曲が時代を代表する流行歌となっていた時期と重なる。
ワーナー・パイオニア時代に明菜の宣伝担当を務めていた富岡信夫氏が、当時の人気ぶりを解説する。
「明菜とデビュー前から何度も地方のテレビ局などに出向き、総額1億円くらい宣伝費にかけました。それほど期待されていたんです。満を持して出したファーストシングルの『スローモーション』は、売り上げ的には約18万枚と想像より伸び悩みましたが、セカンドシングルに、3作目に出す予定だった『少女A』を持ってきたことで一躍ブレイクしました。当初、明菜は少女Aのアルファベットが自分のことかと勘違いして歌うのを拒否していたんですが、無事歌ってくれて、約40万枚のヒットになりました」
続く3作目となる「セカンド・ラブ」は、明菜の歌唱力に加え、アーティストとしての唯一無二の表現力も相まって、売り上げ約80万枚を記録。全シングルの中で最大ヒットを飛ばしたのだ。
「全盛期は、ワーナーの年間売り上げの3分の1にあたる約40億円を稼いでいたといいます。彼女はセルフプロデビュースに長けていて、振付も自身で考えていた。それがまたカッコいいんです。デビューから1年でマネージャーが4人ほど変わるなど人間関係で苦労することがあったようですが、いい感性と歌唱力を持つ素晴らしい歌手なので、活動休止はもったいないと感じます」(富岡氏)
ラブコールは鳴り止まないようなのだが‥‥。