清朝第12代皇帝、溥儀。ほとんどの方は、映画「ラストエンペラー」を思い浮かべるのではないだろうか。栄華を極めた清朝の最後の皇帝である。
1906年に北京で生を受け、1908年に西太后に指名されて、2歳10カ月で皇帝に即位した。その後、激動の政変に巻き込まれて数度、退位と即位を繰り返す。1924年のクーデーターに際して紫禁城を追われ、1931年の満洲事変勃発を経て、1934年には日本軍に担がれる形で満洲国皇帝の座に就いた。しかし、1945年、ソ連の侵攻を受けて満州国消滅を宣言。ソ連軍に拘束されてソ連の強制収容所に収監される。中国へと身柄が移されたのはそれから5年後のことだった。
映画で描かれたのは、このあたりまでである。その後、時代が現代へと飛び、老いた溥儀が、観光地となった紫禁城に入場料を払って入る印象的なラストシーンとなる。それでは、映画では描かれなかった、中華人民共和国時代の溥儀の生活はどのようなものだったのだろうか。
身柄の移送後、長期に渡って収容所に拘束されて共産主義教育を施される。収容中生涯初めて、衣服を着る、靴を履く、身の回りを掃除するといったことを自分ですることとなった。当然まともにすることができず、まわりの収容者から不満を持たれていたという。釈放されたのは1960年のことだ。北京植物園で庭師として勤務後、文史資料研究委員会の専門員の任務の一環として自伝の執筆を行う。
そして離婚歴のある看護婦・李淑賢に一目惚れをして熱烈なプロポーズの末に結婚する。ある資料によれば、妻に「溥儀は大馬鹿だ。3歳の子でもできることも、溥儀が手を出すとダメになる」などと人前で罵られながらも平穏な結婚生活を送ったようだ。好物はチキンラーメンだったという。
1967年10月、死去。享年61。死因はガンであった。中国当局の目を恐れて多くの病院が治療を拒否したという逸話も残されている。子供はできず、血統は途絶えることとなった。子供ができなかった理由は、いまだはっきりと明らかにされていない。
(オフィスキング)