「もはや戦後ではない」と高らかに謳い、高度経済成長の時代を迎えた72年、まさかグアム島に日本兵が潜伏を続けていようとは…。発見された横井庄一さん(享年82)の帰国は、今からちょうど50年前のことだった。
「恥ずかしながら生きながらえておりました」
72年2月2日、帰国後の第一声である。45年8月15日の終戦の知らせを信じることができず、ジャングルで実に28年もの潜伏生活を送っていたのだ。
そして横井さんは帰国後、地元の愛知県名古屋市で第二の人生を送る。
名古屋市博物館に長らく勤務した竹内弘明氏は、横井さんの余生を知る数少ない人物だ。亡くなる直前まで、足かけ15年にわたって交流を重ねた。
「横井さんのグアムでの生活を刻んだ貴重な品々を、博物館で預かって展示する形をとることに。そのため、3年ごとに契約を更新する必要があり、横井さんのもとを訪ねました」
竹内氏は初対面の時にまだ20代半ばで、横井さんは60歳を過ぎていた。そのため、話しかけても「若憎にはわかるまい」と、多くを語ってもらえなかったという。
「特にグアムの生活については、しゃべりたがらない様子でした。74年にフィリピンのルバング島から帰国した小野田寛郎さんとよく比較されましたが、例えて言うなら小野田さんは『職業軍人』で、横井さんは『敗残兵』。それゆえの、秘したところがあると思います」
やがて、一言二言ではあったが、竹内氏に本音を明かすことも増えていった。横井さんは出征前、洋服職人として生計を立てていた。帰国後も同じ仕事に就けることを楽しみにしていたが、
「時の人になってしまったから、そんな状態ではなかったですね。あまり話をしたがらなかったのに、生活のために全国を講演で回らざるをえなくなった。私にボソッと『普通に生きたかった』と漏らしたことがあります」
■失神するまで殴られ、ライフルの銃口を向けられた
帰国から2年後の74年には、参議院議員選挙にも無所属で立候補。だが、あえなく落選している。竹内氏が今、その胸中を思いやる。
「選挙活動中でも、横井さんは街頭演説をほとんどやらなかったと聞いています。そもそも無所属で出たとはいえ、誰かに担がれて仕方なくという感じだったんでしょう」
この落選を境に「潮を引くように周囲から人がいなくなった」と漏らしたそうだ。
それにしても、なぜ横井さんは28年もの潜伏生活を続けたのか。
「戦時中は中国からグアムに移動して、そこで米軍が攻めてくる前に島での防御態勢を固める必要があった。実際、現地の人間を使って過酷な作業も強いたと思います。そのことで、現地の人の仕返しが怖い、という思いはあったようです」
竹内氏の指摘を象徴する出来事があった。72年1月24日、横井さんはエビやウナギを獲る罠を仕掛けていたところを、現地住民によって確保される。その際、日本兵だとわかると、ひとりが横井さんを失神するまで殴り、ライフルの銃口を向けた。その住民は自分の弟と甥を、残留兵に惨殺されてしまった過去があったのだという。
幸い、現地人の必死の説得によって惨事は免れたが、改めて戦争の恐ろしさを知らしめた。
横井さんが帰国したのは57歳の時で、その年の11月には美保子夫人と結婚している。竹内氏が語る。
「横井さんも美保子さんも、子供をすごく欲しがっていました。ただ、美保子さんも結婚当時45歳でしたし、その時代の医学ではどうしようもありませんでした」
失われた28年はとてつもない損失だけを残している─。
*「週刊アサヒ芸能」2月17日号より。あの「ニュースの主役」を大追跡【2】につづく